前号では,“同業者批判”を含んでいたので,少し抑え気味に書いた。今号ではもう少し踏み込む。
第1 エンタテイメント業界について
少なくともこの項で書くことは,私が自ら設定したスサノオ通信の本来の課題から少しはずれる。なぜなら,私は日本有数のエンタテイメント業界団体の長年にわたっての法律顧問であり,“ジャニーズ問題”は当事者性が強過ぎる。特にこの項で書くことは,エンタメ業界にとっては重要な問題であっても,様々な分野での普遍的課題を抉り出して問題提起するというこのスサノオ通信の趣旨にはそぐわない。また,この項で書くことに限っていえば,“皆様のビジネスに役立つ”という内容でもない。そのことを承知の上で以下のようなことを書くのは,前号の記事につき様々なご意見やご質問等をいただいたからである。
1 業界団体の苦闘の歴史
ジャニーズ事務所は,文字通りの“独立帝国”である。日本のエンタメ業界においては複数の業界団体があるが,ジャニーズ事務所はそのどこにも所属していない。
私の関与する団体は,当時のこの業界の草分け的創業者(社)が中心となって1960年代の初頭に発足して以降,今日まで60年にわたりプロダクション業務の近代化とプロダクションの社会的地位の向上を目指して,文字通り苦闘を続けてきた。様々な悪しき慣行や偏見と闘い,またアーティストの権利獲得・擁護のために闘ってきた。その過程は文字通り苦難に満ちたものであった。
たとえば,今日においては当たり前とされているVTRの二次使用や目的外使用・部分使用も,テレビ局は当該アーティストの所属するプロダクションから使用許諾も取らず,使用料さえも支払わないという“横暴”がまかり通っていた(当時の著作権法93条1項,2項違反)。この問題解決のために1982年に始まった在京5社との交渉は,1985年にようやくにして本協定締結に至った。NHKとの協定はさらに遅れて1986年,在阪5社との協定は1988年である。
また,悪しき“規制改革論”に毒された一部の人々(エコノミスト,学者,企業家等)が,プロダクションとアーティストとの協同作業により生み出された文化・芸術的な価値であるアーティストの成果物(作品)の“流通の自由”のみを声高に叫び,
「カネ(対価)さえ払えば自由に使わせろ(流通)」
と要求したのに対し,我が業界団体は許諾や対価の支払いを円滑にするため,他の団体と協力してCPRAやaRmaなどの権利処理団体を結成し,自らの権利を守りつつ時代の要請に応えた。ちなみに,アーティストの成果物(作品)は,プロダクションとアーティストの協同作業によって生み出された金の卵であり,この金の卵を生むガチョウがこの両者の協同作業体(組織体)である。悪しき“規制改革論者”は,自らの主張がまかり通ったときに(即ち,“金の卵の流通の自由”が実現されたときに),“金の卵を生むガチョウ”が死んでしまうことに想いが至らないのである。文化・芸術は経済的価値を生むものではあっても,経済そのものではないのである。
アーティストに対する様々な人格攻撃や誹謗中傷は今日に始まったことではない。これに対しても団体自身が組織をあげ,文字通りその総力戦として集団訴訟を闘うなど,苦闘の連続であった。
日本の大手マスコミ,ジャーナリズムが権力に牙を抜かれて“小羊集団”の如くなってしまった今日において,めげずに闘う今や数少ないマスコミのひとつとなった“我が頼もしき週刊文春”も,かつては質が悪く,ときには“えげつない”記事を書いてアーティストを苦しめてきた。ある著名なアーティストに至ってはそれによってほとんどその生命をつぶされてしまった。私自身週刊文春編集部に対し,何度「内容証明郵便」を送ったことか。
このようなことを書き始めたらきりがない。
今日エンタメ業界において当然のごとく理解され,享受されている様々なアーティストの権利や価値は,私の関与する団体の長年にわたる“権利のための闘争”なくしては存在し得なかったのである。
“ジャニーズ帝国”がどれだけ巨大かつ強大な“独立”帝国であっても,また,それがどれだけ巨額の収益をあげる巨大企業であっても,それはこのような長く苦しい闘いの基礎のうえに築かれたものであることを片時も忘れてはならない。そこには,その闘いには,膨大な数の人々が参加していたのである。
ちなみに,この我が業界団体の会員は大手ばかりではなく,中小や零細なプロダクションも多数参加している。
2 音楽・芸能プロダクションの役割と存在意義
私がこの業界団体にかかわるようになったのは,1987年からである。私がそれ以降最も力を入れてきたのは,プロダクション業務そのものの理論的基礎の確立と,法律論的基礎の確立であった。
プロダクション業務の理論的基礎の確立にあたっては,私の関与した業界団体のスタッフであり,今は亡きY氏が多大な貢献をしてくれた。彼は,日本のプロダクション業界に精通しているのみならず,アメリカのアーティストビジネスに精通していた。この“日米比較”によって,日本型プロダクションビジネスの特質が余すところなく明らかにされ,これがいかなる意味を持っているかが解明されたのである。
私がお手伝い出来たのは,この「日本型プロダクションビジネス」の法律論的基礎を確立することであった。これをひとことで言い表すとすれば,“プロダクションとアーティストとの協同作業”による“アーティストのパブリシティ価値の創造・発展・擁護”ということになる。「パブリシティの権利」の確立・発展には,私がこの問題に関与する以前から少数ではあるが有力なエンタテイメント・ロイヤー達が様々な成果をあげていた。私のやったことはその成果に踏まえ,このパブリシティの権利を日本型プロダクションビジネスに理論的に位置づけることであった。私は,そのため,アメリカで発達したパブリシティの権利を憲法学者伊藤正己教授とともに最初に日本に導入した阿部浩二教授を私どもの研究会に招へいした。その成果物はもうだいぶ前に我が団体から分厚い報告書として完成・発表していた。
これに伴い,日本型プロダクションとアーティストとの「専属契約」は,アメリカでは一般的な,いわゆる(今はやり言葉となっている)「エージェント契約」と,いかなる点で本質的な差異があるかを明らかにした。
当然のことながら,この日本型プロダクションビジネスにおける「専属契約」とアメリカ型の「エージェント契約」では大きな差異があるが,それはそれぞれのアーティストビジネスの発展してきた背景が全くといってよいほど異なるからである。“一長一短がある”という言い方も間違いではないが,そもそもそういう“利害得失の比較”の問題ではないのである。
3 ジャニーズ事務所の“新契約”について
ところが,“ジャニーズ問題”の悪しき影響が,日本のプロダクションビジネスに“混乱”を持ち込もうとしている。
ジャニーズ事務所が,今後設立されることとなる新会社と所属タレントとの契約を,いわゆる“エージェント契約”に切り替えると発表したからである。そのことの当否は,新会社とアーティストとの間で決すべきことであり,私があれこれいう問題ではない。
しかしながら,これを受けて,いわゆる“マネジメント契約”からいわゆる“エージェント契約”に切り替えさえすれば“ジャニーズ問題”の本質的問題が解決ないし解消されるかの如き論調がマスコミ等で散見されるが,これは極めて軽薄にして“付和雷同”そのものというべく,“ジャニーズ問題”の解決の方向を誤導するものである。
そこでのいわゆる“マネジメント契約”にしろいわゆる“エージェント契約”にしろ,その位置付けはもちろんその内実さえも曖昧であり,ましてやその歴史的意沿革や背景はもちろんその「存立根拠」すら探究することなく,“エージェント契約”にしさえすれば,アーティストに対する抑圧,被抑圧の関係が解消・解決されるなどというのは,まったくの上すべりにして無責任な議論である。
“ジャニーズ問題”の奥に潜んでいるのは,そんな単純な問題ではないのではないか。このように契約のスタイルさえ変えればあたかも問題の本質的解決ができるかの如く錯覚するのは,このスサノオ通信が「制度への物神崇拝」としてこれまで厳しく批判してきた日本の政治風土(スサノオ通信第9号,第10号,第11号,第12号)とあい共通するところがあるのではないか。
これもまた,今日の日本の社会が思慮深さを欠き,物事の本質をとことん突き詰めることが出来なくなったという“知性の劣化”がなせるわざかもしれない。
それに付随していうと,“ジャニーズ問題”を生ぜしめたことについてのマスコミの責任が今問題となっているが,それに対するマスコミの弁明のひとつとして,「“芸能界のゴシップ”だと思ったから深く追求(及)しなかった」というのがある。
なら,問おう。「“政界(永田町)のゴシップ”だったらこれを放っておくのか?」-と。どこかで芸能界に対する蔑視があるのではないか。
ジャニーズ問題の発生根拠を“芸能界特有の体質”などと評論して問題の本質をすり替えてしまう論調もまた,このような芸能界をさけずむ風潮と無縁ではなかろうか。
いずれにしろ,“ジャニーズ問題”の根は深い
第2 ジャニーズ事務所の記者会見に惟(おも)う
-“錦織淳のマニュアル(?)”が“ジャニーズ事務所のマニュアル(?)”に物申す―
この項で書くことは,いささかでも皆様の「ビジネスに役立つ」ことと自負している。
ジャニーズ事務所の先般の記者会見の“失敗”を論ずるにあたって,最も根底のところでもどかしさを感ずるのは,現在のジャニーズ事務所の“司令塔”がどこにあるかが見えないことである。
“錦織淳のマニュアル(?)(その1)”
「何事も“司令塔”が大切。ましてや緊急事態の解決にあたっては,まず適切な人材による適切な規模(余り大人数過ぎてはいけない)の“司令塔”を何よりも先に確立せよ(状況の進展によって変更してもよい)」
現下のジャニーズ事務所にかかる意味での司令塔はあるのであろう。残念ながら私にはその姿が見えないだけである。
“錦織淳のマニュアル(?)(その2)”
「局所のマニュアルにこだわるな。それに引きずられるな。それに無理にあてはめようとするな」
今の日本は“マニュアル全盛時代”であり,“マニュアル至上主義の時代”である。直面する問題を解決するにあたり,マニュアルが答え(正解)を出してくれるのは,一定の場合における一定の答えを過去のデータ基きとりあえず一般化・類型化しているだけである。それ以上でもなければそれ以下でもない。しかし,我々が直面するであろう問題は,過去の事例(データ)が積み上げた前提事実とは,ときとしてまるで異なるかもしれないのである。また,そのマニュアルが提示する解決方法が,直面する場合に適切であるという保証はどこにもないということを知るべし。
“錦織淳のマニュアル(?)(その3)”
「マニュアルを使うときはその成立根拠,妥当する根拠を考えよ。また,その成立範囲,妥当範囲を考えよ」
マニュアルがありがたいのは,それが「経験則」を整理・類型化したものだからである。要は,マニュアルを金科玉条の如く崇めてはならないということである。それが前号で述べた「マニュアルは使うものであって,使われるものではない」 ということの意味である。
“錦織淳のマニュアル(?)(その4)”
「専門家に過度に依存するな。専門家にまかせっきりにするな。専門家に丸投げするな。」
私自身,弁護士として様々な分野の,様々なタイプの,極度に困難な事案を多数手がけ,成功もし,失敗もしたからこそ敢えて申し上げる。専門家はしょせん専門家(テクノクラート),その道に秀でた人ではあっても“万能の神”ではない。もちろんことと場合によりけりだが,専門家にまかせっきりにすることは,ときとしてとんでもない陥穽にはまる。今般のジャニーズ事務所の記者会見の“失敗”の最大の要因のひとつはそこにあったと考える。
“錦織淳のマニュアル(?)(その5)”
「過度の分業化はやめろ」
分業化自体は必要であるが,分業化によって全体性・統一性が失われることは絶対に避けなければならない。よって,これは「司令塔の存在の必要性」と裏腹の関係に立つ。
ジャニーズ事務所の先般の記者会見の“失敗”は上記(その2)から(その5)がそっくりあてはまると思うが,これらの問題は容易に是正可能である。ただ,「司令塔」(その1)はその存在自体が私には全く見えないので,ジャニーズ事務所にそれがあるかないかは全くわからない。仮に存在していたとすれば,かかる“失敗”を招来したという点では,上記(その2)から(その5)までは“今流行(はやり)の風潮”であるから,司令塔がそのことに気づいてさえくれればそれでよい。ただ,それから先は自力で解決していただく他はない。深刻な問題であることは間違いない。私にとって“ジャニーズ問題”の最大の懸念のひとつである。