2023年1月7日 第10号 制度への物神崇拝を捨てよ(その2)―「小選挙区制度」から「民主主義と専制主義の“対立”,そしてグローバルサウスとは何か」まで―
elections, The hand of woman putting her vote in the ballot box

2 小選挙区制度導入の問題点(前号から続く)

⑴ いかなる「国家像(国家ビジョン)」=「綱領」が対立するのか

今号では小選挙区制度導入の二つ目の問題点について論じるつもりであったが,今少し第一の問題点(より大きな問題点)について述べてみたいと思う。

前号で小選挙区制度導入論者の「二大政党」論は,どのような「国家像(国家ビジョン)」をもった二つの政党を新たに創り出すのかという観点は完全に欠落していたと述べた。もっとも,その点で全くの“無”であったかといえばそうではない。

多くの人々は欧米型の二大政党を漠然と想い描いていた。しかし,欧米型の二大政党といっても,実はそんなに沢山の例があるわけではないし,しかもイギリス(U.K)の二大政党とアメリカ(U.S.A)の二大政党は,「対立軸」のあり様(ありよう)も相当に異なる。つまり,モデル(模範)とすべき二大政党の対立軸そのものがいったいいかなるものか突きつめて考えられていたわけではない。

そこでもう少し「対立軸」の像をクリアに結ぼうと考えた人々は,欧米型の二大政党の「対立軸」を「社会民主主義」と「新自由主義」の対立として捉え,これをあるべき姿として想い描いていた。イギリスの労働党と保守党の関係がこれに近いといえば近いか(アメリカの民主党と共和党の関係は必ずしもこのような対立軸では説明できない。)。

資本主義(発展)の本質が競争原理の肥大化ないし極大化にあることは疑いようのない真実であるから,一方においてその論理に忠実たらんとして新自由主義的思想や体系に親和性を持つ人々が結集し,他方において競争原理の徹底がもたらす様々な弊害を克服しようとして競争原理の導入に修正を加えようとする人々が結集する―その対立軸には一宅の存在根拠があるように思われる。

しかし,私は,そのような対立軸には一定の歴史的根拠があったものの,今やそれは次第に希薄化しつつあり,やがて無意味なものになっていくと考える。なぜなら,前号で述べたように「近代政党とは国家なり」という近代政党の本質に思いをいたせば,現実に存在するひとつの政党が,よしんばそれが「新自由主義政党」であったとしても,競争原理の徹底による弊害に無為無策であったり,これにより脱落していく人々を放置したりすることはあり得ないからである。それは単に国民の人気とりであったり,選挙に勝つための道具だてであったりするのではない。資本主義的生産様式が存続・存命していくための基盤整備に他ならないからである。そのため「新自由主義的」政党が弱者救済の社会政策や税制を採用したりすることがあり,その逆もある。

特に資本主義の発展とともに国家の役割が巨大化し,国家の政策体系が複雑・高度化した今日,「社会民主主義」対「新自由主義」という対立軸は極めて相対的なものに変化しつつある―ここまではおそらく多くの方々に賛同を得られるのではないか。

問題はそれより先にある。もっと根源的でもっと本質的なことである。それはいうまでもなく人類が今や文明史的転換期を迎えていることが誰の眼にもはっきりしてきているからである。「社会民主主義」対「新自由主義」の対立軸など,極論すれば,所詮コップの中の嵐に過ぎない。日本は,本来ならば新しい産業政策体系の追求において世界の最先端に立たなければならなかった。日本は,かつて“公害列島”と呼ばれた。“公害”問題が“環境”問題に変わったことは,特定の加害企業対特定の地域被害住民という関係から,問題が人類共通の普遍課題に変容したという点では好ましいことだが,それによって問題の本質が曖昧になるわけではない。

水俣病は,長い間“奇病”であるとか“風土病”であるといわれた。しかし,水俣病の発生機序の解明は,私たち人類に極めて衝撃的な事実を突きつけた。これまで幾度か述べたように,水俣病の発生機序が明らかにしたものは,“この世の万物はことごとく循環する”ということであり,かつ,“地球は有限である”という「真理」であった。そして,もうひとつ忘れてはならないことは,それが企業の「生産活動」によってもたらされたということである。拙著「神々の終焉」で述べたように,資本主義的生産様式の確立以前から人類は「科学技術を万能の神と仰ぎ」,欲望の飽くなき追求を行ってきた。政治システムがどのように変わろうとも,そのことだけは一貫していた。そして,科学技術の発展は,生産力の巨大な増大をもたらし,新たな“フロンティア”を求め続けてきた。しかし,今や地球上に“フロンティア”はない(月や火星に新たな資源を求めればよいという人がいるが,何をかいわんや!)。

水俣病という苛烈な犠牲を経験し,かつて公害列島という汚名を着せられた日本こそは,次の時代における産業政策体系とそれを支える科学技術体系がいかなるものであるかを創出すべき最先端に立っていたはずだった。しかし,SDGs といい,脱炭素といい,地球温暖化・気候変動対策といい,またもやヨーロッパに先に音頭を取られてしまった。

いずれにしろ,「社会民主主義」対「新自由主義」との相克により「政治が改革」され,世の中がよくなっていくというのは,歴史認識の観点からはもちろん,地球人類が(世界経済が,と言い換えてもよい)いかなる“現実”に直面しているかを無視した議論であるいって過言ではない。何故なら,「社会民主主義」対「新自由主義」の対立とはいっても,所詮は経済成長により一定の富が生み出されることを所与の前提として,その富をどのような仕組みでいかに「分配」するかという点での相対的差異に過ぎないからである。今や地球人類は,生存するための富そのものをどのようにして生み出すか即ち産業政策体系の抜本的転換を迫られているのである。産業政策体系のあり方を論ぜず,政治制度のあり方のみを論じるのは,たんなる制度いじりでしかない。ましてや,小選挙区制度の導入により,政治資金の問題がかなりの程度改善されたといってこれを擁護する一部の人々の見解には,問題の次元がまるで異なるとしかお答えのしようがない。

⑵  日本の固有の問題
   ―自民党というものをいかに理解すべきか―

我が国の「政治改革」が小選挙区制の導入による「二大政党」政治の実現を夢見ていたことは確かだが,そこには「国家像(国家ビジョン)」=「綱領」の対立をどのように捉えるかという観点が欠如していたことはここまでに述べてきたところである。

しかし,実は我が国における「政治改革」=小選挙区制度の導入論者の政党論に欠如していたもう一つの問題がある。それは日本の自由民主党というものをどのように理解したらよいかという観点であった。

前号で,自民党というのは理念も政策も異にする政治家が寄り集まって出来た“五目鍋政党”であると述べた。 古くは,石橋湛山氏の「小日本主義」に源流を持ち宮澤喜一氏につながる宏池会と,岸信介氏に始まり小泉・安倍氏につながる清和会の対立軸のみならず,戦後日本の高度成長下で勢力を拡大した田中角栄・竹下登氏の“経済成長至上主義=軽武装国家日本”という潮流もある。

いってみれば,1955年の日本の「保守合同」(自由党と日本民主党の合同による今日の自由民主党の誕生)以来,日本は自由民主党という“疑似的連立政権”によって国家運営が担われてきたといってよい。だから,何かあれば総理の首をすげ替えることにより“疑似的政権交代”を繰り返し,巧みに生き延びてきたのである。これは自民党のある種の“生命力”である。

もっとも,小選挙区制度の導入により,これはおそらく誰もが予測しなかったことと思うが,自民党のこのような“疑似的連立政権”としての性格が変質しつつある。後に述べるような小選挙区制の特質により今や自民党全体が均質化し,一色に塗りつぶされつつあるように見える。派閥による理念や政策の違いが段々見えにくくなってきた。これは小選挙区制度の我が国への導入がもたらした副作用ともいうべきものであり,自民党が“柔構造”から“剛構造”に変質しつつあることを意味する。これは自民党にとってある種の危機であり,同党が我が国の支配政党であることを考えれば我が国にとっての危機でもある。この点は,小選挙区制の導入により政治家が小粒になったといわれることとも関連するので再度後述する。

その点はさておくとして,いずれにしろ,小選挙区制の導入による「二大政党」論者は,そもそもこのような自民党という存在をどのように捉えていたのであろうか。実は,その点が甚だ心もとないのである。

ある者は,このような自民党そのものを“二大政党化=政界再編成”の流れの中で“解体”し,しかる後に“理想的な”二大政党の誕生を夢見た(たとえば,「社会民主主義政党」と「新自由主義政党」の誕生など)。いわゆる“ガラガラぽん”である。しかし,これは現実を全く無視した空理空論であった。

またある者は,自民党を“古い政治”として捉え,これに対抗するもうひとつの大政党を起ち上げ,これを“新しい政治”の担い手にしようと考えた。これが(旧)民主党の誕生であることはいうまでもない。しかし,ここに欠けていたのは,自民党自体の持つ上記のような特質をどのように評価するという視点であった。この視点の欠落がふたつの“寄り合い世帯政党=五目鍋政党”の誕生をもたらした最大の原因であり,制度に合わせて(即ち「政権交代」を自己目的化し)二大政党を無理矢理創るという誤りをもたらした。(旧)民主党の崩壊はたんなる偶然ではない。

⑶  現在の“野党再編成”論について

ここまで論じた以上,現在の“野党再編成”論について全くふれないわけにはいかないであろう。よって少しだけさわりを述べることとする。

周知の如く,(旧)民主党政権の崩壊以降,野党は四分五裂し,“一強多弱”と呼ばれる有り様である。そして,野党再編成をめぐって事態はかなり混迷している。

そんな中で,またぞろ“政権交代”を自己目的化しようとする動きがある。一度は政権交代の実現という“正夢”を見たこと,政権交代が政治の緊張をもたらすという副次的効果があることetc.……から,このような主張は今後しばらくは絶えることがないだろう。しかし,“急いては事を仕損ずる”―今求められているのは,新たな「国家像(国家ビジョン)」の確立である。それをしないまま政権交代はもちろん,たとえ短・中期的な政界(野党)再編成を目指しても,必ず挫折する。今は少数であることを恐れてはならない。問題は明日の多数派,しかも永続的なそれにどうやってなれるかである。それには少々時間がかかる。何よりも新たな政策体系=綱領の構築が必要である。また,それを担うだけの人材の発掘・育成が不可欠である。後述するように,小選挙区制の導入が,その妨げになっているから,これはこれで大変困難な課題である。この点は,いずれおって詳しく述べる。

もっとも,今後シングル・イシューによる連立政権という事態が全く想定出来ないわけではない。特に前述したように自民党が本来有していた“柔構造”を喪い,硬直した政策思考に陥ったときにそのような局面が到来する可能性がある。その場合野党に連立政権という形でお鉢が廻ってくる可能性がある。しかし,ここでも,荒削りでもよいから明確な「国家像(国家ビジョン)」を持った政党が中核となって連立政権を未来志向で牽引していくこと,またそれを支える一定数の人材が存することが,連立政権の中期的存続にとって不可欠である。その前提条件を充たさない連立政権の誕生は,自民党の“柔構造”の喪失とあいまち,日本の政治全体の危機的混迷をもたらす。文字通り“日本沈没”である。

(この項分量が多くなったので次号に続く)

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